厳密には「イギリス東インド会社」という一つの会社組織が存在した訳ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。東インド会社以前にも特許会社は存在したが、貿易商人の
組合に近い性格を持っていた
レヴァント会社、
モスコー会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、自前の
従業員を持つ合本会社 (Joint Stock Company) として設立された。当初は香辛料貿易で利益を得たが、
アンボイナ事件後、東南アジアでの活動を縮小しつつも、活動の重心をインドに移し、
フランス東インド会社と争った。最終的に
七年戦争でイギリスがフランスに勝利し、インドにおける覇権を決定づけた後はベンガル地方の徴税権取得を皮切りに、次第に政治的、領域的支配組織に変化していった。1858年、
インド大反乱の責を負う形でインド統治権をイギリス政府に譲渡し、1870年代半ばに解散。なお、現在でも東インド会社の名を冠した紅茶が販売されているが、これは1978年に紅茶販売のため、紋章院の許可を得て設立された会社である
[磯淵猛『紅茶事典』新星出版社、2005、p.185]。
1577年から
1580年にかけての
フランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった
。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、
地中海や
モスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、
1595年、
オランダが
ジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。
レヴァント会社はオランダが直接、アジアから当方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で新会社が設立されることとなった。さらに、
エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、
1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373
ポンドの資金を集めた
この航海は成功に終わった
。